硬X線光電子分光法とは
2015.07.07 UpdateTOPICS
硬X線光電子分光法とは
背景
光電子分光法は、Kai.M.Siegbahnにより1950年代に報告された分析手法です。この時、彼はMo Kα線によるCu 1sの光電子スペクトルを報告しています1)。その後も、1970年代に硬X線による光電子分光法の報告例がありますが2)、励起源となる硬X線の強度不足や、分析器の光電子収集能力の不足等の技術的な問題のため、分析手法として実用的なレベルには達しませんでした。そのため、光電子分光法は、Al Kα線、Mg Kα線などの軟X線や、ヘリウム放電管などの紫外光源により実用化し、現在も有力な分析手法として広く利用されています。
21世紀に入り、SPring-8に代表される第三世代放射光施設の出現により飛躍的に強度が増大した硬X線の利用が可能になりました。同時に、分析器の耐圧や感度の性能が向上し、前述の技術的な問題が解決されました。これらにより、硬X線光電子分光法の報告例3)4)5)が急速に増加しました。
現在も硬X線光電子分光法による報告例は増加傾向にあり、比較的新しい分析手法として注目を集めています。
SPring-8 施設全景写真
硬X線光電子分光法の原理
硬X線光電子分光法の基本的な原理は、一般的なXPSと同様に試料表面に励起光を照射し、放出される光電子の運動エネルギーを測定するものです。従来のXPS装置で最も多く使用されている単色化Al Kα線の光子エネルギーが1486.6 eVであるのに対し、硬X線光電子分光法で使用される励起源の光子エネルギーは5~8 keVと3倍以上になります。そのため、硬X線による光電子スペクトルには一般的なXPSでは知り得なかった多くの情報が含まれます。
硬X線光電子分光法は “Hard X-ray Photoelectron Spectroscopy” と表記され、HX-PES、または、HAXPESと略称されます。これと区別するため、AlKα、MgKα線などの軟X線を励起源とした光電子分光法を “Soft X-ray Photoelectron Spectroscopy” (略称:SX-PES)と呼ぶ場合もあります。
硬X線光電子分光法の特長
深い内殻準位からの情報
硬X線は入射エネルギーが高いため、軟X線より深い内殻準位の光電子を励起することができます。例えば対象がSiの場合、軟X線では2s軌道までしか励起できませんが、硬X線では1s軌道まで励起することができます。図1にAl Kα線(hν=1486.6 eV)と、Cr Kα線(hν=5414.8 eV) による光電子励起の例を示します。
図1. Siの光電子励起の模式図
内殻からの光電子励起が可能になる一方、励起エネルギーが高くなると光イオン化断面積が著しく減少します。光イオン化断面積は光電子が励起する過程に関わる物理量ですが、光電子分光で得られるスペクトルの強度はこの値に比例します。図2は、SiとAgの光イオン化断面積を励起エネルギーでプロットしたものです。Al Kα線で主に測定されるSi 2p3/2とAg 3d5/2では、励起エネルギーが1.5 keVから5.0 keVに高くなると、光イオン化断面積は一桁~二桁減少します。しかしながら、Cr Kα線で測定が可能であるSi 1sとAg 2p3/2では、励起エネルギーに伴う光イオン化断面積の減少が小さく、Si 1sでは励起エネルギー1.5 keVと5.0 keVでほぼ同等のイオン化断面積となっています。
このように、硬X線光電子分光では軟X線より測定可能な内殻準位が多いため、重複ピークの回避や深い内殻準位の選択など、目的に応じて最適な準位を測定することができます。
図2. 励起エネルギーに対する光イオン化断面積
図3. 各線源における励起可能な元素およびエネルギー準位
深い領域の情報
光電子の脱出深さは、電子の物質内における非弾性平均自由行程(Inelastic Mean Free Path:IMFP)と同等であり、信号として得られる光電子の情報深さはIMFPの2~3倍程度と言われています。硬X線光電子分光では、高いエネルギーのX線を用いることでより深い領域の情報を得られることが特長として挙げられます。
例えば、Al Kα線とCr Kα線の場合、Cr Kα線はAl Kα線より3倍以上の深い情報が得られます。Cr Kα線を用いた測定では、表面数nmに存在する汚染や吸着種、および自然酸化層などの影響が相対的に小さくなるため、本来の試料情報により近い光電子スペクトルを得ることができます。また、試料の埋もれた界面を非破壊で分析することも可能となり、 Al Kα線では評価が困難であった試料に対して大きな期待がもたれています。
図4. Cr Kα線とAl Kα線の情報深さの違い